延喜式内小川神社

小川神社創建の由来

伝承によれば、昔、小川真人(まひと)という貴族が京都から来て、この地方を開墾して村をつくり、小川郷と名付けていた。隣の青具領より流れる青具川(土尻川)とここの筏峰(いかだがみね)から流れる小弥川とは合流するところに社祠を創建して、地名により小川神社と名のったーーーと。

この小川真人の一族と称するものが古山城を築き、しだいに勢力をのばして、小川左衛門尉(さえもんのじょう)貞綱の時には、小根山・瀬戸川・日影・稲丘・竹生(たけぶ)五ヵ村を領有し、近隣もあわせて小川郷三千石と名のり、またこのお宮をことに崇敬して社殿を壮麗に修築した。

このため、遠くからも大ぜい参拝にくるほどの大社になったが、応仁2年(1468)の兵乱のときに小川氏は没落し、社殿も破壊されて衰えた。
其の後、大日方小五郎弾正忠長政がこの地方を支配して、また元のように神社を整備した。慶長3年(1598)には大日方氏も古山城を去り、古山城は廃墟となって、お宮も荒れてしまった。--宝永6年(1709)の天神由来記

延喜式の記述より

延喜式内小川神社は、平安時代の「延喜式」神名帳記載に初出することから、平安時代以前より小川地方に存在した有力な神社であったと推測される。
※「延喜式」とは平安中期延喜5年(905)から延長5年(927)にかけて藤原時平、忠平によって編纂された格式(律令施行細則)

本殿

本殿造営は18世紀前半とされ、造営から300年近く経っている。
平成22年(2010)御柱大祭造営事業の一環として、本殿基礎修復が行われた。
1998年冬季長野オリンピックの使用道路として権道31号線が大改良され、当神社裏を県道が通り、オリンピック終了後も北陸と関東を結ぶ主要幹線道路となった。

大型重量積載トラック等の振動だけが原因とは断定できないとしても本殿が傾き、基礎の修復が急がれていた。
この修復工事の際、本殿御神体台座の裏書に享保14年(1729)10月寄進、願主は大日方、大工は松本との墨書きが発見された。当神社本殿の造営は建築方式と彫刻等から18世紀後半と推測されていたが、この墨書きにより18世紀前半であることが判明した。

平成22発見享保14年奉納墨書き

御射山神社

本殿左にある御射山(みさやま)神社本殿は、昭和に合祀されました。