式年造営御柱大祭

御柱祭りは元来諏訪大社の御柱祭が元である。御柱祭の正式名称は「式年造営」である。
7年ごとの寅年と申年に行われる日本三大奇祭と称される御柱大祭は社殿の建て替えに因み、四隅におんばしらと呼ばれるモミの大木を曳きつけ時計回りに建てる。
当神社では樹齢百年を超える杉の大木を二本曳きつけ拝殿前後左右に建てるが、北信では二本の御柱を立てる神社が多い。
また、御柱大祭に合わせて諸所損傷個所等の補修等を行ってきている。

延喜式年小川神社の御柱歴史

宝暦年代(1750~)は最もさかんであったことが宝暦14年(1764)4月15日諏訪上宮(現諏訪大社上社)からの薙鎌授与の御府(古文書)に記載あり。

明治23年寅年(1890)

当番区:舞袋
寅年の御柱祭が復活した。美しく着飾った踊り子を先頭に御柱が曳かれたという。実際のところこの頃の御柱祭の復活はよくわかわないが、明治22年には高府村と小根山村が合併し南小川村が発足したので、御柱祭の復活は小根山地域の結束を志向したという見方もある。

明治29年申年(1896)

当番区:小根山町
申年小川神社の御柱祭は小川神社の御柱祭として正式に斎行された。
区ごとに年番制度が始まり、この年の年番区は(小根山)町。注連掛場(御柱スタート地点)は荒神様(こうじんさま)前であった。
御柱の長さは寅年では四十五尺(13.5m)

明治35年寅年(1902)

当番区:和手
注連掛場(しめかけば、御柱スタート地点)は秋葉神社前。
この年から音頭取が着飾って木遣歌(きやりうた)を歌って御柱を曳いた。木遣歌でもこの地域一番の歌い手西澤武助氏による作詞作曲「深山の名もない杉の木も今日は晴れての御柱」この一曲が有名で今でも引き継がれている。

明治41年申年(1908)

当番区:上
小根山中の無格社等を合祀御射山(みさやま)神社、弥栄(いやさか)神社、雷神社の三社併せて御射山神社として小川神社境内社にまとめられた。
この大祭から諏訪大社より薙鎌の授与があり現在まで続いている。小川神社御柱祭では諏訪大社から発行された薙鎌・御符が行列の宮司や献弊使の前に奉持され、薙鎌は前々総代長が、御符は前総代長が持つことになっている。

大正3年寅年(1914)

当番区:立屋
この大祭から諏訪の長地村東堀(現岡谷市)から騎馬行列と長持一棹を依頼し参加があった。
この年から騎馬大将(若殿)が任命された。初代若殿は立屋の村越貢(12)氏である。この騎馬行列は御柱の警護にあたるものとされる。
なお、この年は明治天皇御大葬のため山出しはしてあったが里曳祭は秋に斎行されている。

大正9年申年(1920)

当番区:塩沢
注連掛場:避難橋の田
この年、塩沢から長持一棹が奉納された。長持の芸、技術は諏訪郡長地村(現岡谷市)奴行列から伝授されたという。
この年11月30日小川神社は郷社に昇格した。翌大正10年5月15日に昇格祭が盛大に斎行された。
小根山中は無論のこと、隣村各地の崇敬者からも昇格を奉祝して銘旗・織の寄進行列があった。獅子宮行列には14頭が参加(氏子9頭、客神楽5頭は千見、萩野、古山東西南)いろは行列は先頭に幟(のぼり)持、長持2棹、そしていろは字名を冠した通俗行列、さらに大八車に細木で組み立てた船を乗せて、中には俵を積み獅子方と船頭が乗り込む宝船等々小根山中が沸きに沸いた。
昭和3年から御射山祭に奉納短歌や俳句が行われ文芸の隆盛を示し、村民一体参加のまつりとなり現在に続いている。

大正15年(昭和元年)寅年(1926)

当番区:小根山町
注連掛場:避難橋の田

昭和7年申年(1932)

当番区:和手
注連掛場:現在の信濃屋宅地

昭和13年寅年(1938)

当番区:上
日支事変拡大による男子が少なく、一の柱には夏和、久木、花尾の応援がつき、二の柱には高府町、上野の応援がついた。
そして、隣接の古山から神楽を、美麻村の千見、三百地、青具(あおく)などから神楽と練り物を、信州新町の中の在家、栃久保(とちくぼ)、中塚、宇内坂(うないざか)、萩野などから幟(のぼり)を持ってきてもらって行列に組み込みました。
この年にハガキ版の御柱写真が制作されている。
この年以降、騎馬行列は辰野町平出に依頼して現在まで続いている。稲荷の子供長持も奉納された。

昭和15年(1940)

紀元2600年記念事業として幣殿、拝殿、社務所を建て替えるべく事業費2万円で計画されたが、戦時下で建築統制令により社務所のみ建て替えられた。
一方、紀元2600年を奉祝して各地の神社で浦安の舞が奉納されている。
小川神社でも10歳代の少女を選び舞を習わせ祭りの度に神前に奉納された。「天土(あめつち)の神にぞ祈る朝凪の海の如くに波立たぬよう」という歌に合わせて麗しき巫女達が清楚にして華麗な古代衣装をまとい鈴と扇を持ち清々と舞った。この浦安の舞は
現在も小根山の小学校女子によって伝統を引き継いでいる。

昭和19年申年(1944)

当番区:立屋
時節柄太平洋戦争が熾烈を極め、中堅の若者殆どが出兵し大変であり、騎馬行列と若殿の選出は休んだ。酒等は各戸へ配らず貯めておいて少ない配給物資を工面して祭典を斎行している。
この年に写真集が作られている。昭和20年8月15日終戦、12月占領軍から国家神道廃止に関する指令により国からの援助は無くなり、神社の運営はすべて民間に任された。
小川神社は昭和21年6月17日宗教法人となり、氏子や崇敬者による運営となった。昭和28年5月には宗教法人として正式登録されている。

昭和25年寅年(1950)

当番区:塩沢
注連掛場(しめかけば)でトラブルがあったと言われている。平出の騎馬行列が街道を賑わした。

昭和31年申年(1956)

当番区:小根山町
長い間の懸案であった社殿の造営が行われた。建材の欅や杉の銘木等は氏子の寄進により伐採され旧社務所等に集材されてあった。幣殿・拝殿・神〇所・神職控所・摂社拝殿の造営(旧拝殿を移転)、神庫の建て替え等境内の拡充がされた。
昭和28年2月宮大工美登利屋工務店請負で起工し、昭和30年上棟式、昭和31年御柱大祭当日に竣工式が執り行われた。

昭和37年寅年(1962)

当番区:上和
造営事業としては宮前橋が永久橋に架け替えられた。
この年から年番区の編成替えがあり従来の5つの年番区から上区和手、塩沢立屋、(小根山)町の3つの年番区制となった。
昭和34年和出出身の西澤権一郎氏が長野県知事に就任、その後の御柱祭ということで地域挙げての御柱ムードがたかまった。
アルバム制作委員会が作られ、タイトルが「小川神社の御柱祭」B5判20ページで発刊された。

写真アルバム

昭和43年申年(1968)

当番区:塩沢・立屋
注連掛場:避難橋の田

昭和49年寅年(1974)

当番区:小根山町
注連掛場:避難橋の田
8ミリ映画を自主制作して老人クラブ等で上映し喜ばれた。このことが次の御柱祭への啓もうに欠かせない媒体となった。

昭和55年申年(1980)

当番区:上和
注連掛場:初引広場
神社氏子総代30名が冬季間に懸命なる奉賛活動を行い、600人余りの御柱奉賛者から協力をいただいた。さらに、公民館小根山文館による御柱写真集が編集発刊された。

昭和61年寅年(1986)

当番区:塩沢・立屋
注連掛場:避難橋の田
この年より「小川神社の御柱祭」は神社によって編集発刊され現在まで続いている。この年の御柱祭では小根山在住の子供たちが多く、子供長持ちには4棹64人が気勢を上げ、大人長持ち辰野騎馬行列一行とで街道を賑わした。
刀良柱による建御柱祭はこの年が最後になった。

平成4年申年(1992)

当番区:小根山町
注連掛場:須畑田
造営事業として御手水舎が奉賛会長である小林工業代表取締役小林善作氏により建設奉納された。
建御柱は安全対策上から重機によって行われることになった。

平成10年寅年(1998)

当番区:上和
注連掛場:初引旧久米子橋前
造営事業として鳥居の銅板張りが行われた。
平成13年小林憲幸宮司が交通災難で逝去され、この年が小林宮司最後の御柱祭となった。

平成16年申年(2004)

当番区:塩沢・立屋
注連掛場:須畑田
造営事業としては社務所の下水道化等を行った。
昭和55年以来助勤として当神社にご協力いただいた宮下俊樹宮司により斎行された。
この頃より少子高齢化の波が小川村にも影響し始め、当番区の在り方等の議論もあった。

平成22年寅年(2010)

当番区:小根山町
注連掛場:須畑田
造営事業として本殿基礎修復、屋根小板葺き修理、拝殿屋根鬼取り替え、境内入口狛犬台座修復等を行った。
本殿修復の際、御神体台座裏書に享保14年(1729)造営の墨書きがあり「小川村史」記載がある18世紀前半に本殿が造営されたことが証明された。

平成28年申年(2016)

当番区:上和
注連掛場:初引広場
少子高齢化の中での祭典であったが前回を上回る大勢の方が参加協力された。長持4棹等練物(ねりもの)では以前と比べ寂しい感じもあったが、曳き手の協力が多く、かつ見物の方やカメラマンが非常に多く、定期バス通過時の交通整理では警察安協の方が苦労する場面があった。
造営事業では境内通路の舗装と大太鼓が補修された。